遠回りして帰る夜 – 最短ルートを選ばなかった日

遠回りして帰る夜 – 最短ルートを選ばなかった日

仕事を終えて駅に向かう。

いつもなら、迷いなく最短ルートを選ぶ。
信号の少ない道、
人混みを避けられる裏通り、
時間を一分でも短縮できる乗り換え。

身体は覚えている。
考えなくても、効率のいい動きを選択する。

それが正しい大人の振る舞いだと、
どこかで思っている。

その日も、いつもの交差点まで来た。

右に曲がれば、最短。
左に曲がれば、少し遠回り。

なぜか、足は左に向いた。

理由はうまく言えない。
ただ、風の匂いが少し違ったからかもしれない。

住宅街のあかり

オフィス街を抜けると、
静かな住宅街に入る。

カーテン越しのあたたかい光。
キッチンで動く影。
テレビの音。
食器の触れ合う、かすかな音。

それぞれの家に、それぞれの夜がある。

誰も急いでいないように見える。

昼間の世界とは違う速度で、
時間が流れている。

その中を、ただ歩く。

足音が、一定のリズムを刻む。
吐く息が、少し長くなる。

昼間の緊張が、ゆっくりほどけていく。

何も起きない時間

遠回りをしているだけなのに、
不思議と落ち着く。

誰にも評価されない時間。
何も達成しない時間。
成果も、通知も、数字もない。

ただ歩く。

それだけで、
頭の中のざわめきが静まっていく。

急いでいるとき、
世界は背景になる。

遠回りすると、
世界がちゃんと前に出てくる。

コンビニの白い灯り。
自動販売機の低い音。
遠くで鳴る電車のブレーキ音。

すべてが、やけに鮮明だ。

最短で帰った夜は、思い出せない

家に近づくころ、
ふと気づく。

最短ルートで帰った日のことは、
ほとんど覚えていない。

何分で着いたか。
どの電車だったか。
誰とすれ違ったか。

記憶は、きれいに消えている。

でも、遠回りした夜のことは、
なぜか残る。

あの風の匂い。
あの家のあかり。
自分の足音。

時間を無駄にしたはずなのに、
心は少し整っている。

駅の改札が見えてくる。

急げば、一本早い電車に間に合う。

でも、その電車に乗らなくても、
たぶん困らない。

立ち止まる。

ほんの数秒。

夜の空気が、静かに肺に入る。

また明日も、きっと忙しい。
また最短ルートを選ぶ日もある。

それでも、ときどき思い出すだろう。

あの夜、
少し遠回りしただけで、
世界の音が、ちゃんと聞こえたことを。

そして、
ああいう夜があるから、
また急げるのかもしれない、ということを。

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